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27

Feb

原作改変は悪なのか? 原作クラッシャー問題について徹底検証


(画像引用 : 『日本テレビ』公式サイト https://www.ntv.co.jp/

メディアミックスにおいて原作となる作品から大きく内容を改変する「原作クラッシャー」問題が沢山の議論を生んでいます。
「原作改変=悪」という風潮が果たして真実なのか、どうして原作改変が起こるのかを、歴史を踏まえつつ徹底検証します。

何故「原作改変」は起こるのか


(画像引用 : Amazon)

そもそも論として、どうして原作改変という現象が起こり、それが問題視されるようになったのか。
これは一言で纏めるとメディアミックスの弊害という事になるでしょう。

メディアミックスとは元々広告用語で、商品を広める上で複数のメディアにおける宣伝を組み合わせて効果を向上させる為の手法です。
ただし近年では「ある作品を別のメディアで展開する」という意味で使用されるのが一般的になり、特に漫画や小説といったコンテンツを映像化する上でのマーケティング用語として使用される事が大半となっています。

日本におけるメディアミックスの歴史は古く、明治時代には既に実施されていました。
当時は西洋の文化が日本に流れ始めた時代で、シェイクスピア作品の翻案歌舞伎などが本格的に行われたり、新聞連載小説の映画化やラジオドラマ化などが実施されたりしていました。

そしてアニメの登場によって、一気に幅広い世代にとって馴染みのあるものになっていきます。

黎明期は戦時中とあって、戦意高揚を目的とした国策として『桃太郎』をほぼ原形を留めない形でアニメにするような作品も生み出されていました。
娯楽作品ではないとは言え、「原作の知名度を利用して企画側の思想や意図を広める」という手法が遥か昔から実施されていたのは確かです。

更にその後、日本初の本格的連続テレビアニメ『鉄腕アトム』の大成功によってアニメは国民の娯楽として普及していく事になりますが……その『鉄腕アトム』が既に原作とは全く違う描かれ方になっていました。
元々『鉄腕アトム』は当時急速に発展していた科学技術の凄さを描くを一方、それによって生じる負の側面に警鐘を鳴らす為の漫画でもあった筈ですが、アニメ版『鉄腕アトム』は「科学の進化によって誕生したアトムが正義の味方として活躍する」という画一的なテーマで描かれています。
原作者である手塚先生が発足させた虫プロダクションの制作でありながら、原作とは明らかに乖離が見られるメディアミックスとなっていたのです。

現代のアニメの始祖とも言える鉄腕アトム、それも漫画やアニメの神様と言われる手塚先生の作品で大きな原作改変が生じてしまっている以上、後発のアニメ化やメディアミックスにおいて同様の現象が起こり、それが常態化するのは自然の流れ。
つまり原作改変は「昔から当たり前に行われていて、歴史的名作でも起こっていた事なので後人が罪悪感なくやっている」という根本的な問題に起因しているのです。

アニメの原作改変の歴史


(画像引用 : Amazon)

鉄腕アトムは日本初の長編テレビ用連続アニメとあって、そのノウハウがなく制作体制が常に手探りだった為、原作通りにアニメを作るのは土台無理だったと思われます。
しかしその後、ノウハウが蓄積されても原作改変が恒常化の一途を辿った理由は上記の「右へ倣え」以外にも

①メディアの違い
②制限
③解釈違い

の三つが主に考えられます。

まず①メディアの違いですが、昔のアニメは子供が観るものという共通認識がありました。
漫画にも少なからずその認識はあったと思われますが、アニメの方がより子供向けの性質が強かったと思われます。
よってアニメ版では社会性やメッセージ性を極力排除し、単純明快で子供でも楽しめる娯楽作品により近付ける試みが行われたのは間違いないでしょう。

②制限に関してもメディアの違いが関係しています。
漫画とアニメでは許容される表現の範囲に違いがあり、漫画ではOKでもアニメではNGという表現は多々あります。
製作委員会方式で作られるアニメの場合は出資者の要望に応えなければならないという制限も設けられるでしょう。

また、それとは別に時間や進行の制限もあります。

アニメの制作は

①企画→②脚本→③作品全体の設定・デザイン(色彩設計)→④絵コンテ→⑤レイアウト→⑥原画→⑦動画(中割り)→⑧仕上(色指定)→⑨美術(背景)→⑩3DCG→⑪撮影・特殊効果(映像化)→⑫編集→⑬アフレコ→⑭ダビング(完成)

と様々な部署が設けられ、それぞれがフロー形式で作業を行う構造になっている為、一つの工程で詰まると全体の流れが鈍り、最悪ストップがかかってしまいます。
放送・配信される期日は当然決まっているので、それまでに完成まで持って行くのは大変で、どの部署も常に時間に追われているようです。

上記のフローを見てもわかるように、脚本は制作工程においてかなり前の段階。
もし原作者と頻繁に打ち合わせをして「ここを変えて欲しい」との要望があり脚本が変わってしまうと、その度に後ろの工程全てがストップしやり直しになってしまう場合もあります。

すると制作自体が破綻してしまうので、敢えて原作者との打ち合わせを避けている現場もあったかもしれません。
ならば当然、原作者の意向からは離れて行く事になります。

違う意味での制限として、昔は1クールでは終わらず年単位でずっと放送されるアニメが多かった為「原作のストックが尽きてしまっても続けなければならない」という問題も発生していました。
上記の理由で原作者との打ち合わせの時間が取れない、或いは敢えて避けていた場合、アニメスタッフだけでオリジナル展開を作らなければならなくなります。
そこでクローズアップされるのが③解釈違い、すなわち解像度の問題です。

アニメ化されるほどの人気作品を生み出す原作者は特別な才覚を持っている人が殆どで、そのセンスや独自の理論によって生み出される作品を隅々まで理解し、全て正解を出すのは困難でしょう。
結果、原作で掲げているテーマや作品性からズレた「アニメスタッフによる二次創作ストーリー」が制作・放送される事態になってしまいます。
ただし監督をはじめとしたスタッフ陣が優秀な場合、そのストーリーが高く評価される事もある為、後人の中にも「自分も独創的なストーリーで評価されたい」と考える人が出て来て、原作改変が横行する一因になっていると推察されます。

要するに原作改変とは、元々映像化する側が意図的に行っていたりやむを得ない事情で妥協していた部分が慢性化した、必要悪の成れの果てと言う事が出来ます。
先人が既にやっていて成功例が幾つも生まれた事で、原作を安易に弄る事への罪悪感も麻痺してしまったのでしょう。
勿論、原作をリスペクトし原作者に嫌な思いをさせたくないと考えるアニメスタッフも沢山いた筈ですが、それが何処まで反映されるかは状況次第、環境次第というのが現実だったと思われます。

しかしアニメを取り巻く環境が変化するにつれ、原作改変を巡る問題も徐々に変わって行きました。

2000年代に入ると主なアニメの放送時間帯が深夜へと移行した為、視聴率や子供向けである事を必要以上に気にしなくても良くなります。
結果、アニメ用の脚色が不要となるケースが増え、またアニメの視聴者数の減少に伴い原作から先に入る「原作組」が相対的に増えた事で、原作軽視に対するブーイングも増加。
更にネットの普及によってそういった声が可視化されるようになり、原作尊重の流れが生まれました。

近年ではファンの目も更に厳しくなり「原作通りに」が求められるようになった事もあって、尺の都合で一部のシーンやセリフをカットする事はあっても、それ以外はほぼ原作そのままのアニメ化作品が大半を占めています。
長期にわたって連続で放送されるケースも減り、「原作に追い付いてしまったからオリジナル展開で繋ぐ」というパターンも殆ど見られなくなりました
現代において原作クラッシャーとされるクリエイターは絶滅危惧種に属していると言っても過言ではありません。

実写化における原作改変の悪性度


(画像引用 : Amazon)

漫画や小説の実写化も、アニメ化同様に古くから行われています。
実写化はアニメ化以上に「原作通り」が難しい為、当然アニメ化よりも顕著に原作改変が行われてきましたが、メディア自体の親和性が高くないため原作のファン層と視聴者層が被らず、問題視される事は殆どなかったようです。

また当時は実写作品が定期的に社会現象を巻き起こし、常に流行の最先端を走っていた事もあって、漫画やアニメのようなサブカルチャーを下に見る風潮が少なくとも一部ではあったと言われています。
よって漫画の原作者や編集部は現代より遥かに軽視されていた事は想像に難くありません。
とはいえ当時は漫画雑誌も爆発的に売れていたので、出版社としても無理に実写化する必要はなく、原作改変が問題視される土壌すらなかったと考えられます。

しかし時代は移り変わり、1990年代に入って漫画原作ドラマが高視聴率を次々と叩き出した事で、両者の距離がグッと近くなります。
アニメより観る人の数が多く、かつ普段漫画を読まない層にもリーチ出来る実写化のメリットは大きく、漫画の実写化作品は凄まじい勢いで増加していきました。

そうなれば当然、原作ファンが実写版を観る機会も増えます。
そして原作との余りの違い、原作を蔑ろにしたような内容に怒りの声を上げ、ネットの普及も手伝って「漫画の実写化は鬼門」という意見が主流となりました。
にもかかわらずアニメとは違って、悪い意味での原作改変が現代においても横行しています。

実写化の原作改変については「実写作品と漫画・小説では表現方法が違い過ぎるため原作と同じように作るのは不可能だから仕方ない面もある」という論調を度々目にしますが、それは本質的な問題ではないと思われます。
確かに正論ですが、同時に誰しもが理解している当たり前の事に過ぎないからです。
例えば原作者や原作ファンが「原作の通り」「原作に忠実に」と願ったとして、それが「展開を一切変えずセリフも一語一句変えず全て原作と同じようにして欲しい」という意味かというと、決してそうではありません。

実写化における原作改変で悪性度が高いケースが多発しているのには、根本的な問題として「線引きのズレ」があるのです。

「原作に忠実に」の線引きは何処?


(画像引用 : Amazon)

まず原則として、原作者が「ここは変更しないで欲しい」と要望した部分に関しては改変は出来ません。
著作者人格権第20条第1項「同一性保持権」において「著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。」と明記されています。
原作者には著作物を勝手に改変させない権利があり、「映像化は改変されるのが普通」といった通例や慣習があろうとも、原作者の許可なく勝手に改変する事は許されません

もっとも、わざわざ著作者人格権を持ち出すまでもなく、他者の著作物を預かって映像にするというビジネスをしている以上は原作者の意向に従うのが当然で、それを事前に確認した上で映像化を行うのであれば、意向に即している事を大前提に制作を進めるのが最低限の務め。
社会人および社会法人としての常識であり、それを守れないというのであれば映像制作どころか営利事業自体行うべきではありません……が、そんな常識すら通用しないほど原作および原作者が軽視されているケースが散見されているのが実写化における現状です。

線引きのズレはこれだけに留まりません。
原作者の意向に関係なく、本来決して変えてはいけないラインに関しても、実写化においては度々踏み越えられています。

人によって許容範囲はそれぞれ異なるでしょうが、メディアミックスの際に遵守すべきとされるのは主に

①キャラクターの同一性
②作品のテーマと世界観
③基本的なストーリーラインと人間関係

の三つです。
逆に言えば、この三つを外さなければ改変されていても問題視される事は余りありません。

過去にはテレビアニメでもこの三つを蔑ろにするケースがありました。
特に1990年代まではスポンサーの意向やアニメスタッフのエゴで原作にない要素を次々と盛り込み、別ジャンルのアニメになるケースも散見されました。
ただ、この頃はまだ原作改変が当然のように行われていて、アニメもゴールデンタイムで放送され高視聴率を記録していた時代なので原作より先にアニメから入る人が多かった事もあって、余り問題視されていませんでした。

2000年以降、特に深夜アニメが増えてからはこの傾向は徐々に変わっていきましたが、改変による炎上は時折起きていました。
例えば2012~2013年に放送された『さくら荘のペットな彼女』では、原作では体調不良のヒロインにシンプルなお粥を出すシーンなのに朝鮮料理のサムゲタンに変更され、大騒動に発展しました。

日本で病人にサムゲタンを出すケースなどほぼない事を考えると異分子の混入、すなわち世界観の破壊に該当しますし、この料理を出したキャラクターにまでブレが生じてしまいます。
これがサムゲタンではなく鍋焼きうどんだったら問題視される事はなかったでしょう。
上記①~③を守ってさえいれば、描写や展開が変わろうとセリフの内容や言う人物が変わろうと、大きな問題ではないのです。

原作者や原作ファンが守りたいと願うのは、作品の軸であり根源です。
特にキャラクターは非常に重要で、作品の主軸と言えます。
漫画やラノベの場合、多くの作品においては主要キャラの生き様や美学を第一に描かれ、ファンもキャラのカッコ良さや可愛さに惹かれて愛着を持つに至ります。

しかし実写化においてはこの点が余り重要視されていないケースが多々見受けられます。
「このキャラはこういう言い回しをする」「このキャラならこの場面でこんな行動に出る」といったキャラクターの同一性よりも、制作スタッフの価値観やリアル世界との整合性、そして俳優のイメージを優先するような改変が目立ちます。
そもそもキャスティングの時点で原作のキャラとは似ても似つかない人物が選ばれる事が大半で、高身長のキャラを低身長のアイドルが演じるなど、その例は枚挙に暇がありません。

ジョジョの奇妙な冒険のスピンオフドラマ『岸辺露伴は動かない』は、原作を大幅に改変しながらも①~③を遵守している事で好評価を得た実例と言えます。
とはいえ、このような作品はかなり稀です。

何処までを許容できるかは人それぞれですが、キャラクターの同一性を破壊する事は作品自体を破壊するのに等しい行為という認識は、恐らく殆どの原作者や原作ファンの共通認識だと思われます。
ですが実写化作品は、そこを無視しておいて非現実的な髪の色や奇抜な制服デザインだけは原作に合わせるといったチグハグな事をやっているケースが非常に多く、大きなズレがあると言わざるを得ません。
視聴率欲しさにテーマから外れた恋愛要素を強く打ち出したり、原作では出番の少ないキャラをキャスト人気に合わせて目立たせたり、キャスティング都合でキャラの性別を変えたり……当然こういった改変も原作破壊行為と見なされますが、本来絶対に踏み越えてはいけないそれらのラインを易々と踏み越える行為が常態化しているのが現状です。

何故ズレが生じるのか。
それはやはり、漫画・アニメを好む人達とそうではない人達との価値観のズレが原因の一つと思われます。

「アニメや漫画は子供が楽しむもの。実写作品は10代から年配者まで広い世代が嗜むもの」

こういった考えはかなり長期にわたって日本に根付いていました。
その為か、漫画が全世代で読まれアニメが世界で認められる文化となった現代においても、実写畑の制作スタッフやプロデューサーの中にはアニメや漫画の制作者より自分達が上だと考えている人がもしかしたらいるのかもしれません。
原作軽視の背景には、そういった事情も少なからずあるのでしょう。

悪しき原作改変が起こらない方法は


(画像引用 : Amazon)

ここまでは原作改変の悪性度について記してきましたが、最後にどうすれば実写化における悪質な原作改変が起こらなくなるかを考えてみたいと思います。

メディアミックスに関わる全ての人々が互いを尊重し、作品の本質的な部分を理解するよう務め、そこから踏み外さない作品作りを徹底する。
理想論を唱えるならば恐らくこうなるでしょう。
また極論を言えば、出版社が漫画やラノベの実写化から撤退するというのも確実な手段です。

しかし当然、それらは現実的ではありません。

以前ほどではないとは言え、それでも実写化は出版社にとって恩恵があります。
そして漫画家はあくまで個人であって、基本的には出版社と対等になれるほどの立場が得られる事はありません。
「実写化が嫌な漫画家は断れば良い」「信頼できる制作陣にだけ頼めば良い」というのも、様々なしがらみが作用する業界にあっては書生論に属する意見となるでしょう。

メディアミックスにおいて原作および原作者は「著作財産権」「著作者人格権」で守られる……というのは所詮絵空事。
守られていないから問題が起きているのです。
つまり、これらの権利を作者保護の根拠としている限りタチの悪い原作改変はなくなりません。

出版社やプロデューサーにも、優先すべき責任やしがらみはあって当然です。
ですが既にヒットしている原作を無視し、それを生み出した原作者を無視し、「これなら数字を取れる」という大した根拠もないフォーマットを優先させるのは驕りであり怠慢、或いは自己顕示欲の暴走に過ぎません。
けれど、そういった非人道的な風潮が数十年も蔓延していた現実がある以上、完全になくなるまでにも相当な年月が必要なのは想像に難くありません。

実写のオリジナル作品がヒット作を連発し、漫画等の有名作品の実写化に頼る必要がないくらい業界が潤う。
アニメの市場規模が爆発的に拡大し、実写化の必要がないくらい大きなアニメ化効果が原作に生じる。
例えそうなったとしても恐らく実写化はなくならないし、運悪く原作軽視のプロデューサーや制作陣に当たってしまえば悲惨な原作改変は起こってしまうでしょう。

古い体質と価値観を持った人材が一新され「原作を蔑ろにした実写作品は絶対に成功しない」という空気が定着する時代になれば、改善される事は十分考えられます。
でもそれは当分先の話。

残念ですが、悪しき原作改変が起こらなくなる画期的な方法はありません

まとめ

本記事は『セクシー田中さん』および芦原妃名子先生に起こった悲劇をきっかけに制作しましたが、その主因が原作改変にあったと論じるものではありません。
また、特定の人物および団体を非難するものでもありません。

原作改変=悪と断定する事は出来ませんが、原作者の意向を無視するのは原作クラッシャー以前に人として論外です。
それは人間の尊厳を破壊する行為です。
決してあってはならない事で、それをやむを得ないとする風潮が業界内にあるとしたら一刻も早く是正されるべきだと思います

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