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17

Apr

シン・エヴァンゲリオンが今後100年語られる作品になった理由を考察してみた(ネタバレ)

ついに、エヴァンゲリオンが完結した。

1995年にテレビ版が始まってから、すでに26年。当時、シンジ達と同年代だった14歳の子供たちはちょうど40歳を迎えている計算となる。

しかし完結編であるシン・エヴァンゲリオン劇場版を観た人の中で、当初のテレビ版をリアルタイムで観ていたのはほんの一握りのはずだ。

レジェンドとなるアニメのほとんどは、初回放送時は不遇の目に遭っている。時代を先取りし過ぎているからだろう。

引用:eiga.k-img.com

終わりのない物語をついに完結させたシン・エヴァンゲリオン

テレビ版では、あの異常な、苦し紛れで完成させてしまった最終回が、良くも悪くも話題になった。

線画で描かれた、まるで自己啓発セミナーを彷彿とさせる「おめでとう」という意味不明な祝福で終わる最終回。

26年たった今でもなおそれが何を意味していたのかはっきりしない、「ロボットアニメ」としてはありえない終わり方だった。

引用:oricon.co.jp

もしテレビ版が完結していたら「今」はなかった

しかし今改めて考えてみれば、もし最終回がああいう形ではなく、きちんとオチがついたものだったら、その後の旧劇場版も、新劇場版も存在しなかったことだろう。

だとしたらあの投げっぱなしで無責任だったテレビ版の最終回に、心から敬意を表さねばならない。

テレビ版が綺麗に完結していたら、その後きちんとした完結を目指すために作られた旧劇場版はなかっただろうし、貞本義行のマンガ版が18年も連載されることもなかっただろうし、もちろん新劇場版も必要なかったはずだ。

引用:hatena.com

庵野秀明=エヴァンゲリオンとしての終わり方

なぜなら、エヴァンゲリオンという作品に対してファンが期待していたのは、「いったいあの物語はどのような終わり方をするのだろうか」という一点に絞られていたからだ。

テレビ版はもちろん、本来なら終わりの役目を果たすはずの旧劇場版もまた結局誰も納得させることなく、ファンを置いてけぼりにしたまま終劇の文字をブラックアウトしたスクリーンに無理やり刻み込み、貞本義行のマンガ版は長い年月を経て無事に終わりはしたものの、ファンとしてはエヴァンゲリオン=庵野秀明であるが故、あれでエヴァンゲリオンという物語にカタがついたという気にはならなかった。

そして26年前に投げかけられた問いかけが、ついにここに帰結した。

おそらく多くのファンが納得する形で。

引用:nijimen.net

共感の物語としてのエヴァンゲリオン

エヴァンゲリオンがここまで多くの人の心を掴んだのは、共感の力なのであろう。

誰に共感するかは人によって違うだろうが、共通するのは他者との断絶だ。自分の殻に引きこもり、父親とコミュニケーションが取れないまま、異形のエヴァンゲリオンで命をかけなければならなくなったシンジ。

活発そうに見えながらも実は孤独に支配されているアスカ。アイデンティティーすら存在しない透明な存在であるレイ。

あるいは物語全体の希望が見えない世界自体に共感し自己同一化した人々が、エヴァンゲリオンという物語の続きと終わりを渇望し続けた。

引用:encount.press

日本という国が徐々に堕ち始めた時代を現す

テレビ版がスタートした1995年という時代は、バブル景気が崩壊し、阪神淡路大震災、そして地下鉄サリン事件が発生したという、ある意味日本の転換期と言える年であった。日本という国が絶頂期のピークを超え、何かしらの不安を抱きながら徐々に衰退していくプロセスに入った時に産み出されたアニメ作品は、そんな漠然とした不安を象徴していた。

それから26年経って終わりを迎えた物語は、絶望を繰り返しながらも、最後に希望の形を残してくれた。

奇しくも26年前に日本に起きた様々なクライシスを繰り返すかのように、シン・エヴァンゲリオンが公開予定だった2020年には、新型コロナが日本のみならず世界を席巻した。

奇妙な符合だが、あえてそこに意味を見出すとしたら、繰り返しの物語がまた閉じられていなかったエヴァンゲリオンが、26年間の不安のループを閉じて新しい世界への扉を開いた、ということではなかろうか。

引用:fashion-press.net

長いループの時代を閉じ新しい世界への希望を示す作品

26年前に投げかけられた不安や畏れは、シン・エヴァンゲリオンという最後の作品の、最後のシーンは、エヴァンゲリオンというループする虚構の世界に迷い込んでいた私たちが、実写で表現された現実で生きている現実社会での登場人物へとメタモルフォーゼし、そして静かに幕が落とされた。

それは旧劇場版のエンディングの説明として発せられた「現実に帰れ」という、腑に落ちないメッセージとは異なり、声変わりした(大人になった)シンジとマリが手を繋いで駆け抜ける、ヒュンヒュンと不安げに風が鳴る電線でもなく、真っ赤に染まる海でも大地でもない、エヴァンゲリオン(あなたが畏れ、不安であり、何かが消失した)がいない真っ青な空の下、つまり私たちが帰っていくべき現在の延長線上にある、幸福な現実世界を指し示してくれた。

もちろんその終わり方をどう受け止めるかは個人の感じ方によるのだろうが、それが彼らの勝ち取った自分たちの望む世界であったわけだ。

その終わり方に対して、まだ世の中に不満だらけなのに受け入れられるわけがないだろうという声もある。確かにそうだ。だが、作品が提示するのは可能性だ。シン・エヴァンゲリオンは、希望の物語なのだ。ネット上でたまたまこんなコメントを見つけた。

「実はシン・エヴァンゲリオンを観終わったら自死するつもりでした。でも観終わってもう少し生きてみようと思いました。シン・エヴァンゲリオンは少なくとも一人の命を救いました」

もちろん本当のことかどうかはわからない。でもこの作品は、これまでとは全く違う、未来への希望を示す作品だ。

引用:impress.co.jp

普遍的な作品として100年愛される共通点

前述の通りシンジやアスカといった少年少女、あるいはゲンドウやミサトたちの大人たちの言動や立ち振る舞いに、私たちは圧倒的に共感する何かを見つけてしまう。

その共感度こそ、エヴァンゲリオンがここまで愛されている理由に違いない。宗教観をミックスした設定や、謎めいた専門用語は、そのための前菜にすぎない。

体験していないはずの体験に共感する無意識的つながり

そう考えているとあることを思いつく。それはエヴァンゲリオンと、過去の名作と呼ばれる作品との共通点だ。

例えば太宰治の「人間失格」。あるいは村上春樹の「ノルウェーの森」だ。発表から何年、何十年経っても語り継がれるいわゆる名作と呼ばれる作品と、エヴァンゲリオンは同じ匂いを感じてしまう。

人間失格では、人を恐れそれを誤魔化すために道化を演じた主人公は、知人に妻を寝取られ、最終的には廃人のようになってしまう。でもおそらくそんな経験をしたなんて人はほとんどいないはずなのに、なぜか読者はあたかもその主人公が自分であるかのように共感してしまう

ノルウェーの森の主人公もメンヘラ気味な彼女が、自死を選んでしまうという運命に翻弄される。おそらく付き合った相手に自死されたこともないはずの読者が、主人公の感情と同一化して共感してしまう

そんなありきたりでない経験になぜか共感してしまうという構造が、エヴァンゲリオンを名作たらしめている一因なのだろう。

引用:cinemacafe.net

過去の名作と名を連ねる不思議な共通項

エヴァンゲリオンはこれで終わったわけではなく、シン・エヴァンゲリオンをもって完結したひとつのサーガとして、これから100年語り継がれることになるだろう。

それはもう、言葉や論理では説明できない、人の業のような無意識レベルの共感と言わざるをえない。

26年をかけて人として歳を重ね、そしてその間に蓄積した経験値やあるいは感情の渦を体験した、稀代の表現者である庵野秀明の手により紡がれた物語は、人間の表面をなぞるだけのありきたりな表現を超え、濃密な映像の情報と予測不能なストーリーの展開の行間に、多くの人を巻き込んでしまう激しい「無意識レベルで伝えられる情感」を織り込み、そこに私たちが惹きつけられ、取り憑かれてしまう。

引用:mantan-web.jp

まとめ

共感させるということは、押し付けで成し遂げられるものではない。いや不可能ではないだろうけれど、浅はかな人の心の表面をなぞるだけでは、共感されてもそれは一瞬に過ぎない。何年も何年も続きを待ちわび、その世界に時として取り込まれてしまうような作品は極めて少ない。

そんな希少な作品であるエヴァンゲリオンにリアルタイムで出会え、何年も待つことができたという体験は、本当に幸福なことだと思う。

そして、これからの100年、この作品を語り継ぐことこそ、そんな私たちに与えられた義務なのではないだろうか。

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